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ひとり仏教の会U
特定宗教団体に縛られる事なく、ひとりで仏教を学び、実践する人達のグループです。
 
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No.260 2010/08/30(月) 19:25:25
セイア  
止観について
今、ここ、自分を観つめる。と言うのは禅宗でも上座部でも(多宗派でも)言われている。そして心の浄化とは何ぞや。と見たときに、上座部のヴィッパサナーに焦点があたった。

今、ここ、自分を見続けることによって、心が清浄になるとは、確かに一理ある。しかしながら、それを遂行するのに、やはり禅堂は必要なのではなかろうか。・・・

あまたの教典を勉強しても、賢くなっても、肝心の[自分]が見えていない。過去の聖人達はすべて「自分」を見てしまった人達なのではなかろうか・・・。

今の自分を持て余すような宗教は、もういらないような気がする。今日この頃。如何思われます?

No.259 2010/05/26(水) 23:29:16
ミューズ  
自分自身の心が決める
親鸞は修行を否定した。修行は自力だからだ。
これを徹底すれば、本来「南無阿弥陀仏」を唱える必要もないということになろう。

「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、
「お任せします。委ねます」
という意味である。

それゆえ「南無阿弥陀仏」とは、
「阿弥陀仏にお任せします」
という意味になる。

唱えるのはどんな場所でも、どんな時でも、どんな場合でもよく、またその回数も問われない。一生のうち、1回だけでもいいということだ。そしてあとは阿弥陀仏にお任せする。

他力もここまで徹底すると、考え込む。
そもそも、そこまで阿弥陀様を信じることがどうしてできるのか?
 
修行もせず、善行もせず、ただ救いを待っているだけの人間を無条件に救ってやるほどの慈悲を阿弥陀様が持っておられると、なぜ信じきることができるのか? それができるとすれば、それもまた凡人には難しい道のように思われてくる。

自力、他力の問題は、実はキリスト教にも同じようにある。
例えば、他力を強調するものとしては、使途パウロの書簡「ロマ書」8章29節以下に、

「神はあらかじめ知っておられる者たちを、さらに御子のかたちに似たものにしようとして、あらかじめ定めてくださった。それは御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そしてあらかじめ定めた者たちをさらに召し、召した者たちをさらに義とし、義とした者たちには、さらに栄光を与えてくださったのである」

とある。

しかしその一方では、有名なイエスの言葉として、

「求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすれば見出すであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう」

というように、自分の努力によって道を開けという教えも見られる。

しかしキリスト教の流れとしては、前者が次第に主流となり、今日にまで至っているようである。

4世紀にはアウグスチヌスが出て、パウロを受け継ぐように、
「信仰を持つことさえ自分自身の力だけではできない。神の恵みである」

と言い、16世紀にはさらにカルヴァンが出てきて、
「神はすべてをあらかじめ予定されている」
と主張した。

カルヴァンから見れば、陀多(かんだた)が蜘蛛の糸を上る途中で再び地獄に落ちるということは、初めから分かっていた(決まっていた)ことになる。こういう悪人は神様も救いようがない。

親鸞上人は、善人が救われるというなら、悪人はもちろん救われるはずだと言われるので、阿弥陀様なら陀多さえ救われるかも知れない。

しかし悪人である親鸞上人を極楽に連れて行ったのが阿弥陀様ではなく、上人自身の心であったとすれば、陀多はすぐには救われないであろう。

すなわち、彼自身の心が自分を極楽に連れて行けるようになるまでは、地獄に留まらざるを得ないのである。


No.258 2010/05/25(火) 00:41:19
ミューズ  
「蜘蛛の糸」について
芥川龍之介が遺した『蜘蛛の糸』という短編がある。

お釈迦様が極楽から垂らした一本の蜘蛛の糸につかまり、地獄から脱出しようとして、結局は糸が切れ、再び地獄へまっ逆さまに堕ちて行った陀多(かんだた)。

彼に対して、有名な3人の日本人仏教開祖、道元禅師、法然上人、親鸞上人がそれぞれどういうコメントをするかという話が、ひろさちやの『すらすら読める歎異抄』にある。

さて最初は、曹洞宗の開祖・道元禅師のコメントである。

「この身を救いたい、自分が救われたと願う心を忘れ去り、仏の家(蜘蛛の糸)に自分を投げ入れよ。上を見ることもなく、下を見ることもなく、あとから大勢の地獄の亡者が登ってくるのにも気がつかず、自分自身が蜘蛛の糸になり切ればよい。そうすれば、生死(地獄)を離れて仏(極楽)となる」

「自分」「我」というものを投げ捨てよ、というのが道元禅師の考えのようである。それがある限り、地獄(生死へのこだわり、我執)から抜け出ることはできない。おそらくこれは、仏教のオーソドックスな考え方であろう。

しかしながら、いくらその考え方に惹かれても、実際には自分を捨て去ることが容易にできないというのが実情であり、ほとんどすべての人(つまり凡人)は陀多と変わりはないということだ。高みから彼を嗤うことはできない。

それでは、法然上人はどうコメントされるのであろうか? 

法然上人は自力的なオーソドックス仏教に対して、「他力の仏教」を唱えた。他力ということは、自分の力ではなく、仏の力によって救われるということである。

蜘蛛の糸で言えば、大多数の人間は陀多(かんだた)と同じで、蜘蛛の糸を登り始めても、途中で「我執」が出て失敗するに決まっている。そこで、我々はただ蜘蛛の糸につかまるだけでよい、というのが法然上人の考え方である。そうすると極楽世界のほうから阿弥陀仏がその糸を引っ張り上げてくれると信じるのだ。

道元禅師のように、無心になったり、自分が蜘蛛の糸になりきったり、生死を離れたりというような、難しいことを考える必要はない。そういうことはすべて阿弥陀様がやってくださるので、私はただ糸につかまるだけでよい。

これは一見、自分の責任をすべて阿弥陀様に預けてしまう安易な道のようにも見えるが、「阿弥陀様は必ず私を助けてくださる」という並々ならぬ確固たる信仰に基づいた行動である。

そうだとすれば、これも簡単なようで、実はかなり難しいことではないか。

「そのような確固たる信仰をすべての衆生が持つことができるだろうか?」そう考えたのが、法然上人の弟子である親鸞上人である。
親鸞上人は法然上人の弟子であり、基本的には師の考え方を受け継ぎながらも、今一歩深く突き詰めて考える。

「蜘蛛の糸にただつかまるだけでいいと言っても、つかまることすらできない人がいるかも知れない。そういう人は救われないのだろうか?」

「他力」の概念をギリギリまで追求すると、蜘蛛の糸につかまるという行為すらも親鸞上人には「自力」に見えてくるのだ。

蜘蛛の糸は「善行に対する報酬」である。その報酬は陀多(かんだた)のものであり、彼はそれ(自分の善行に対する報酬)によって助かろうとしたわけであるが、しかしそれはすでに「自力」ではないか? 

そもそも悪人というのは善行のできない人間であるから、結局悪人は善行によって救われないということになる。

それでは、悪人はどうすれば救われるのか?親鸞上人の考え方はこうだ。

極楽世界からお釈迦様が、「親鸞よ、この蜘蛛の糸を登ってきなさい」と言われると、それに対して、

「お釈迦様、たいへんありがたいことですが、わたくし親鸞は悪人でございます。悪人の私は、きっと陀多(かんだた)のように、『この糸は俺様のものだ。お前たちは降りろ降りろ』と叫ぶに違いありません。私はそのような人間です。ですから諦めます。お釈迦様には申し訳ありませんが、私は阿弥陀様が救ってくださるのを待つことにします。もしも阿弥陀様の救いがなくて、私がこのまま地獄にいるのであれば、きっと地獄が私の安住の場所なのだと思います。私はすべてを阿弥陀様にお任せします。南無阿弥陀仏」

親鸞上人がそう言ったとたん、(否、そう言おうと思ったとたん)彼は極楽世界にいた・・・。

親鸞上人の考えでは、善人とは、自分の善行によって救われると錯覚している人間のことなのだ。

ところで、親鸞上人を極楽世界に連れて行ったのは、一体阿弥陀様なのであろうか?思うに、上人が本当に極楽に行ったとすれば、それは阿弥陀様が連れて行ったのではなく、上人自身の「心」が連れて行ったのではないか?

極楽という世界が人が住むに至高至善の理想的な場所だったとしても、人の心が極楽にならないままに極楽に行ったところで、そこでどうやって、楽しく、幸せに暮らせるであろうか?あるいは、そういう理想的な場所を一体誰が親切にも作っておいてくれるのであろうか? 

このことは、イエス・キリストも語っている。

「天国は、ここにある、あそこにある、というものではない。天国は、まさにあなたの心のただ中にこそある」

地獄、極楽、救いといった問題は、単に宗教的なテーマとしてではなく、現実生活に深くかかわるものとして、もう少し掘り下げて、じっくり考えて見るべき問題のようである。


No.257 2010/05/23(日) 08:22:19
gkrsnama  
予定説
ある神学者は、初期キリスト教が東方教父のネオプラトニズムを受け入れ変質してしまったのが遠い原因だと主張されています。

彼によれば本来のキリスト教は、聖書にあるように原始仏教に通底するものだそうです。

No.256 2010/05/21(金) 22:44:55
ミューズ  
相手の心を鏡のように見る
霊界ではコミュニケーションをどのようにするのであろうか。
霊界は縦に階層化されているため、下層と上層とではだいぶ事情が違うようであるが、高い霊界であればあるほど、相手の心を鏡のように「見る」ことでコミュニケーションをするようである。

これに対してこの世のコミュニケーションはどうであろうか。
相手を知りうる情報量で並べれば、文字言葉、話し言葉、体の仕草、表情という順で多くなるように思う。例えば、言葉では「あなたを愛している」と言っても、仕草や表情の中に愛情が感じられなければ、相手はその言葉よりも表情の方を信じるであろう。

また、メールの言葉はしばしば誤解される可能性がある。急いで簡潔に書きすぎると、受け取った相手は送り手が怒っているのか、あるいは面倒くさがっているのかと感じることがあり得る。それゆえ、メールだけよりは、絵文字や画像を添付した方が、さらには電話での会話の方が、お互いの気持ちをより正確に感じ取ることができるであろう。

霊界でのコミュニケーションは、お互いの心を鏡のように見るというのであるから、あたかも自分の気持ちを画像付きでメール送信するようなものである。そこでは、言葉の力が限りなく小さくなるであろう。言葉で自分の気持ちを偽ることができなくなるのである。すなわち、霊界では「うそ」と「弁解」が通じないのである。「詐欺」もあり得ないであろう。

それゆえ、あの世に行ってから、「うそも弁解も通じない」と嘆くのではなく、今のうちから「うそも弁解もない」生活習慣をつけておかなくては、あの世での生活に容易になじめず、苦労することになりそうだ。



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